《第3回 ヒマラヤ・ワークショップ》
山岳環境保全のパイオニアワーク -シーカ谷での展開-
シーカ河谷の変化
写真(上)約40年前のネパール西部シーカ付近(森林はほとんどすべて伐採されていた)出典:中尾佐助・佐々木高明著『照葉樹林文化と日本』くもん出版、1992年。
写真(下):現在のシーカ付近(森林が再生された)。

今回のワークショップでは、第2回ヒマラヤ・ワークショップを踏まえて、ビデオ「世界の屋根ヒマラヤを守れ! -ヒマラヤ技術協力会の森を守る活動-」を上映します。ヒマラヤ技術協力会とはヒマラヤ保全協会の前身組織です。今から20〜30年前のネパール・ヒマラヤの様子を見られる貴重なチャンスですので、この機会をお見逃しなく!

また、ヒマラヤ保全協会の事業展開について、ネパール西部シーカ谷での実践を例として以下の点を解説します。「パイオニアワークとして技術協力を開始する」 「生態系を重視した問題解決型の実践」「事業評価の方法」「森林は再生された」「水道はほぼ完備された」「環境保全型の観光開発が必要である」「情報処理能力の開発が将来の大きな課題になる」

これらを通して、ヒマラヤの自然環境と村々の構造の本質をとらえ、いかにして住民主体の環境保全活動をすすめればよいかを論じます。特に、地域を、主体である住民と彼らをとりまく自然環境の観点から「主体ー環境系」としてとらえることが重要であることを解説します。

★参加された方には、ネパールNGOネットワーク制作カレンダー2012を贈呈します!

【日 時】2012年1月29日(日)14:00-16:30(受付開始:13:30)
【会 場】国立オリンピック記念青少年総合センター(センター棟 小研修室 4A)
 > 小田急線・参宮橋駅下車、徒歩約7分
【申込み】ご氏名を前日までに e-mail にてご連絡ください。参加無料。
 (資料準備の都合上かならずご連絡ください)
【申込先】ヒマラヤ保全協会事務局 e-mail: ihcjpn★ybb.ne.jp(★を@に変えてご送信ください)

【プログラム】
(1)事務局長挨拶
(2)ビデオ上映「世界の屋根ヒマラヤを守れ! -ヒマラヤ技術協力会の森を守る活動-」
(3)スライドショー「現在のシーカ村 -環境保全事業の展開と終了-」
(4)KJラベルへの記入
【講 師】
田野倉達弘(IHC理事・事務局長)、小山良夫(JICA専門員/IHC理事)、ソハン=トラチャン(ヒマラヤ保全協会会友/在日ネパール人)

※ ワークショップ終了後、近くのネパール料理レストランで新年会をひらきますので、ご都合のつく方は是非ご出席ください。
 会場:Himalaya Curry 参宮橋店(Tel: 03-6410-8455)
 時間:17〜19時

解 説

パイオニアワークとして技術協力を開始する

 1974~1975年、ヒマラヤ技術協力会は、生態系を保全し村人の生活を向上させるため
に、シーカ谷において軽架線と水道建設という技術協力をはじめた。

 ここにいたるまでの経緯をまとめるとつぎのようになる。

 1953年、川喜田二郎は、マナスル登山隊の一員としてネパール・ヒマラヤへはじめて入る。1958年にはトルボ地方の学術調査をおこなう。

 川喜田の底流にながれる精神はパイオニアワークをおこなうということであった。登山や学術探検におけるパイオニアワークの時代はおわったので、つぎは技術協力をやろうと決心した。そして1963~1964年、シーカ谷において、学術調査をすすめながら技術協力をかんがえ、シーカの村人とその約束をする。そして1974年に、ヒマラヤ技術協力会を設立し本格的な技術協力にのりだすことになる。

 このように1953年からの21年間には、パイオニアワークとしての「登山→学術探検→技術協力」という大きな流れが存在する。

 なお、1958年のトルボ地方への学術調査隊に同行した西岡京治氏は、1964年、ブータンに入り技術協力を開始する。

生態系を重視した問題解決型の実践

 川喜田は、シーカ谷への協力にあたり、技術協力をおこないながら調査研究をするという「アクション・リサーチ」という方法を採用した。また、総合的なアプローチではなく「急所に挑む方法」(キー・プロブレム・アプローチ)を用いた。

 その一方で、シーカ谷の技術協力ではTVA(テネシー川総合開発公社)のやり方も参考にし、シーカ谷という谷をひとつのユニットとしてとらえ、1カ村だけでなくシーカ谷全体を活性化させようとした。

 このように、シーカ谷では、地域の生態系を重視した問題解決型の実践がおこなわれた。

評価方法は未発達であった

 そして、1977年には評価チームが派遣される。「水道のパイプラインはかなりのものが故障して放置されていたので、それらについては修理をした。とりつけられた9本の軽架線については、非常にうまく活かされているものから、あまり使用されていないものまで、使い方に大きな差がでている」などの報告がある。

 しかし、当時の評価チームの仕事は、評価というよりも実績確認と問題点の指摘にとどまっている。当時はまだ、技術協力の評価方法は未発達であった。

森林は再生された

 映像をよくみると、1974年当時は集落のまわりには森はないが、かなりはなれたところには豊かな森がのこっている。遠くの森までいくのは村人にとって重労働であったため、当然のことながら、集落の近くの森からどんどん伐採していたということがうかがえる。

 集落のちかくから森林はみるみるうちに後退したので、もっと遠くの豊かな森から、森林を破壊しない程度に計画的に伐採するようにすればよいとかんがえたのは妥当なことである。

 シーカ谷では、その後しばらくして、植林によるもっと積極的な森林保全(森林再生)がおこなわれるようになり、軽架線はその役割をほぼ終え、現在(2004年)ではチトレ村・キバン村でつかわれているのみである。けっきょく、軽架線は、「軽架線→植林→森林の計画的利用」という森林保全・森林再生の流れの基礎をつくりだしたといえ、このような点で、ヒマラヤ技術協力会の最初の仕事は大きな成果を生みだしたといってよい。

人口抑制が必要である

 1963年当時から、シーカ谷は乱開発と環境保全のジレンマにおちいっていた。大きな地滑りが目立つようになったのも乱開発の結果であった。その乱開発の原因は人口の急増であり、人口急増の事情は現在でもかわりない。生態系を保全するためには、人口抑制を同時にすすめなければならないことはあきらかである。

水道はほぼ完備された

 水道に関しては、当初は、塩化ビニールパイプをつかっていたが、その後、ビニールホースを使用した水道へ変化した。現在では、非常に多数の水道が各地に設置され、水源も、かなり高いところになったため水質もよくなった。水道は、村人の生活向上に大きく寄与している。

環境保全型の観光開発が必要である

 1974年当時のシーカ谷にはトレッキングの旅行者はほとんど入っていなかった。したがってロッジは1件もなかった。

 しかしその後、ゴレパニ~シーカ~ガーラ~タトパニのルートはトレッキングルートとして開発され、様変わりした。このルート上では、旅行者がおとす現金は貴重な現金収入になり、一部の住民のライフスタイルは激変した。同時に、ロッジの燃料として薪が大量に消費されるなどあらたな環境問題がおこってきた。今後は、環境保全型の観光開発、さらに積極的にはエコツアーの開発が必要であり、そのためにはガイドの養成もしなければならない。

 他方、トレッキングルートから少しでもはずれた村々には現金はおちず、ルート上の村々との格差が生じている。このような村々では現金収入を得ることが大きな課題になっており、外国へ出稼ぎに出る人は今でも非常に多い。

情報処理能力の開発が将来の大きな課題になる

 国際技術協力では、現地に入る外国人から村人に情報を提供することも重要である。外国人は住民に対してどのような情報を提供すればよいか。1つは、ひろい世界についての情報であり、2つ目は、周囲のほかの村の人々が何を知り、何をかんがえているかを知らせることだ。村人たちは、ほかの村の人たちが何をかんがえているのか意外にもよくわかっていないのである。当然、あらたな情報が入ってくるのであれば、それを処理し、すぐれたアウトプット(成果)をだしていくことが必要になる。

 将来的には、外国人・現地人双方の「情報処理能力」の開発が重要なポイントになってくるだろう。しかしこのことは、多くに人々にはまだ認識されておらず課題となっている。