初登頂までの歩み
■1952年(昭和27年)
インド学術会議に出席した木原均博士と西堀栄三郎博士の尽力でネパール入りが可能となる。
踏査隊を現地におくって研究し、人類未到の処女峰・マナスルを目標にえらぶ。
■1953年(昭和28年)
第1次登山隊として三田幸夫隊長以下15人をおくる。
6月1日午前7時、第9キャンプ(7,500メートル)を出て薄い酸素に悩みながら一歩一歩頂上にすすむ。
そして午後0時に7,750メートルの地点に達する。これから頂上まで標高差にしてわずか375メートル。強引にいけば頂上に達することはできたが、降りは夜になってしまう。頂上を目前にしながら第1次登山隊は涙をのんで引き返す。
■1954年(昭和29年)
第1次登山隊の体験によって頂上への希望を抱いて、第2次登山隊が編成される。堀田弥一氏を隊長に4人の隊員が征服へのファイトに燃えて出発したが、サマ集落付近で地元民に進路を妨害され、目標をガネシュヒマールに変えなければならなくなる。
■1955年(昭和30年)
第3次登山隊をおくる前に、サマ集落を無事通過できることを確認するために、偵察隊を派遣する。
■1956年(昭和31年)
2月、第3次隊は、本隊の槇有恒隊長以下12人が出発、カトマンズでシェルパ20人とポーター400人をやとい、大キャラバンを編成する。踏査隊以来の経験を生かして出発も早く、装備にも改良を重ねたので順調にすすむ。
5月9日午後0時30分、ついにマナスル初登頂が成し遂げられる。8,000メートルを超える高峰に、日本人初の足跡を印す。同11日の第2次登頂にも成功する。
1936年(昭和11年)のナンダ・コット登頂以来21年、1952年(昭和27年)に踏査隊を送って5年、マナスル登頂は世界山岳史に輝かしい1ページを加える。
鳩山首相は、「日本マナスル登山隊が栄光の頂きを征服したことは、日本山岳界だけでなく、日本国民の大きな喜びとするところでしょう」と談話を発表する。
注:マナスルの標高8,125メートル(当時)は、その後の測量技術の進歩によって変更され、現在は8,163メートル(世界第8位)となっている。
参考資料:映画『マナスルに立つ』(毎日映画社)