1.マナスル登山 第三次マナスル登山隊までの道
1.1. 第一回調査隊
1952年、学術調査を兼ねて第一回調査隊を派遣しました。
1.2. 第一次登山隊
1953年第一次登山隊が入山しました。最高到達点7750メートル、隊長は今西綿司氏です。(注:マナスルの標高 は 8,125メートル(当時))1950年インドの北にあってヒマラヤの山々に囲まれたネパール王国が長い間の鎖国を解きました。ネパール側からエベレストの登山口を探ろうとしてイギリスのヒルマンがヒマラヤの奥深くに入りました。その帰りがけにまだ誰にも知られておらず、しかも非常に高い山を発見しました。それがマナスルでした。こうして地球上第8番目の高峰は世界に初めて知られたのです。各国は競って登山を計画しました。その中でも日本が一番熱心でした。1952年学術調査を兼ねた第1回目の調査隊を送りました。これで登れる見込みが立ち、翌1953年世界に先立ってマナスルの氷河を初めて日本人が踏んだのです。ですが、天候に恵まれず頂上からわずか375メートルという点にまで達しながら、最悪の条件に阻まれて引きかえさなければなりませんでした。彼らが山から下った時、イギリス隊エベレスト成功の輝かしいニュースを聞かされたのです。しかし、この失敗は貴重な経験になりました。精密な記録が取れたので次の登山計画へ大きな遺産を残したのです。
1.3. 第二次登山隊
第一次調査隊に基づいて新しく準備を整えた第二次登山隊は、翌1954年再びマナスルを目指してネパールの首都を目指しました。マナスルのふもとサマへ着いたとき、思いもかけぬ妨害が待ち受けていました。去年、日本隊が聖なる山を土足にかけたため、村の寺院が大なだれの下敷きとなり、尼さんも三人惨死したのです。その上悪い病が流行り30人も犠牲者が出て、今年は一歩も村へ踏み入れてはならぬとすごい剣幕でした。狂信な人々は怒りたって武器を構え石を投げつけてきました。この恐るべき迷信を前にしては、進んで死を選ぶかあるいは引き返すかのどちらかしか選択肢はありませんでした。登山隊は引き返えしを選ぶより他にとるべき道はありませんでした。そして目標をガネッシュ・ヒマールへ転進しました。
2.マナスル登山 第三次登山隊 〜ラストチャンスにかける想い〜
第一次、二次と登山隊の登頂が失敗し、その後ネパールで祈祷を行い交渉を続けた結果、何とか現地の了解も得られ1956年、無事にサマを通過できることになりました。ひとつ目の問題は片付きました。次は酸素です。第一次登山隊の時は酸素を十分に使えず苦い失敗をしたのです。今回は酸素補給器と発生器を準備しました。マナスルと同条件のもとで低音低圧など慎重なテストを行いました。さらにこれを真冬の富士山の頂上付近で実地に使ってみました。脈を図ったり、呼吸を調べたり、高山医学の上から厳密な検査をしました。その次の問題は無線です。無線はキャンプとキャンプを結ぶ命の流れであり神経のくさりです。ある時は頭脳となって登山の指揮をとり、ある時は手足となって青氷に挑むのです。一次二次の経験に基づいてさらに性能の高いものを設計し、滋賀高原でテストをしました。雪と氷の世界では食べ物だけが唯一の楽しみです。ただ栄養の点ばかり考えていてはとんでもないことになります。だから旨いということが第一の条件になります。今度は日本食を主にしました。それを後進及び基地用、中間基地用、高所用と三つの用途に分けて約4か月分の食料を用意しました。荷物には日本ヒマラヤ遠征隊の頭文字を入れました。装備、食料、機械類、荷物は全部で16トンありました。さあ、今年こそは是非とも登らなくてはなりません。各国がマナスルを狙っているので、今年を逃したら日本はついに初登頂のチャンスを失ってしまうかも知れないのです。
3.マナスル登山 第三次登山隊 〜初登頂までの軌跡〜
3.1. 日本からネパールへ
≪2月2日≫
槇有恒氏を隊長とする第三次登山隊は「マナスルは日本人の足で」と堅い決意を抱いて神戸港を出発しました。暑いインド洋にさしかかっても日常の肉体訓練を続けました。特に酸素マスクをつけて激しい呼吸をする訓練をしました。苦しい訓練でした。
≪2月末日≫
カルカッタに到着し、それから飛行機でインドを北に上りネパールの首都カトマンズにつきました。
3.2. カトマンズからマナスルを目指して
≪3月3日≫
宿舎では飛行機で後から日本を発った後発隊が出迎えました。山の協力者シェルパの親方ガルセンが出迎えます。このシェルパは雪と氷河を登る技術が優れていて、ヒマラヤ登山にはなくてはならない人たちです。「カトマンズ」という名前は一本の木から作ったお寺という意味だそうです。なにしろお寺が多いのです。それも道理、この国はお釈迦様の生まれた国なのです。カトマンズは祭りで賑わっていました。そして祭りの終わった頃、登頂に必要な最後の荷が到着しました。宿舎の庭に荷物を全部集めました。一人の人夫の背負う量として一個30キロずつに分けます。一人約八貫です。奥地では、銀貨が喜ばれます。銀貨のつつみは40キロずつに分けました。すべての荷物に番号を付けその番号とおなじものを人夫に渡します。また色で分けた為すぐに自分の荷物を見つけることが出来るので出発の際の混乱を避ける事ができて毎日一時間以上の得をします。いよいよ出発です。
≪槇隊長の通信3月11日≫
快晴。午前10時。いよいよ本隊がカトマンズを出発する。行進の仕方は、朝ポーターを出発させ、隊員は12時に出発、そして宿営地に到着する時には既にテントが張られているといった行き方である。今日の行程はわずか750メートルの登りに過ぎないのであるが、烈火のごとく照りつける太陽、煎り鍋の中を歩いているかのような暑さである。午後5時半カカニの頂に着いた。遠くに雪の峰(右からエベレスト、ゴサインクンド、ヒマールチュリ、アンナプルナ連峰、ダウラギリ)を見る事ができた。その偉大さを一望し、感動と嘆息が知らず知らずもれ、ヒマラヤ行の初日は私にとって幸せな日であった。(カトマンズからサマまでは190キロもあり)
≪槇隊長の通信3月12日≫
朝は必ず7時出発である。朝の出発は誠に爽涼として軽やか。しかし午後1時にもなると気温は28度を示し直射の太陽は焼けるようである。トゥリスリバザールという物資の集散地。1500メートルの高度にあってもパパイヤは実り、ブーゲンビレアの美しい花の群れを見る。
≪槇隊長の通信3月14日≫
快晴。ヒマールチュリの眺望はすばらしい。午後5時、マナスルを発見したヒルマンが好んだというヒルマンの丘に着いた。ガネッシュヒマールが望まれる。
≪槇隊長の通信3月15日≫
快晴。今日の行程は急がずに半日の距離に過ぎない。途中、清流で体を洗ったり魚をとったりして遊んだ。ポーターたちが捕った魚の頭を噛んで殺すのが面白かった。ブリガンダキ、乳褐色の濁流を見る。 明日の一日は休日。明日から10日以上はトリガンダキの渓谷をさかのぼるのである。
≪槇隊長の通信3月17日≫
いよいよブリガンダキを登りだす日である。この渓流の源は氷河の巨砲に無数の小渓流をあわせてくるので水流も相当である。道は断崖。だらだらと上るのである。安全度を増すことにしている。人夫の一人でも間違いがあってはならない。この頃からカトマンズで雇った人夫は一人抜け二人抜けして、その代わり土地のチベット人が入ってくる。
3.3. 山岳民族の村を行く
ヒマラヤは現在も隆起しつつあるそうで、まだ壮年期にあります。流水が深く侵食するので、トリガンダキのような深い谷を形成します。ヒマラヤの山を越えて岩塩を運んできたチベットの小隊と会いました。カトマンズ付近ではネワール族、タマン族 グルカ族が多く、だんだん山を登るにつれてグルン族、やがてチベット人の数が増えてきます。人夫たちの食事はツァンパと言って、大麦を焦がしたものです。日本の麦焦がしのようなものです。食事は朝1回夕方1回の2回です。道々、粟、稗などで作ったどぶろくのような酒を売っています。ネパール人は決して器に唇をつけません。
≪槇隊長の通信3月19日≫
昼食後、少し登ると眼下に河原が展開している。この渓谷は誠に珍しい景観で仲間はここを「上高地」と読んでいる。ここは標高1500メートルを示している。橋といっても丸太を2,3本渡しただけ。なのでひどく怯えるポーターもいる。全員が渡るにはゆうに2時間はかかる。ジャガートの村は全て石積みの低い家で階上を人に、階下を家畜にあてている。だいぶチベット風になってきた。
≪槇隊長の通信3月21日≫
雨雲の去来激しく、今日の天候を危ぶみながら定刻7時に出発した。これからの道は言葉どおり険路の連続で、一足事に全身を凝らして進む。足を踏み滑らさぬよう歩き進み、緊張の半日であった。シェルパの中には高らかにお題目をとなえながら歩くものもいた。この付近の石楠花は日本のよりもずっと木が大きい。そして高度を増すにつれ色も薄くなる。名も知らぬ高山植物が随所に見られる。
動物もこの地方独特のものが見られます。長さ50センチのトカゲ、手の平に入ってしまうようなナキウサギ、アカゲザル、そしてラングールザルなどです。大きいものでは人間ぐらいの大きさがあります。
≪槇隊長の通信3月25日≫
快晴。今日は初めてマナスルを仰ぐ日。10時半、遂に行く手の右にマナスルの全貌が高々と現われ、我々が目指す山に近づいたのであった。私の前を通り過ぎるポーター達も山を仰ぎ見て「マナスル、マナスル」と言う。午後1時過ぎ、ロウの部落に着いた。ここはもう全てチベット人の住む所。思えばこの村には今年を含めて既に5度も訪れている。村にももうだいぶ顔なじみも出来た。かつては子供であったこの連中もすっかり年ごろになっていた。
女性たちは羊の毛をつむいで自分達の着る物つくっています。遊んでいる間も手を休めません。ここではヤクがたくさん飼われています。ヤクは高地性の動物で3000メートル以上でないと生きられません。ヤクと牛との合いの子もいます。小さな子供が小石を投げ、獰猛なヤクを巧みに操りながら山の放牧場に追いやっています。
3.4. 第二次登山隊の行く手を阻んだ人々との再会
前回、猛烈に抵抗して我々の前進を妨害したサマの部落はロウの部落の隣にあります。今回はカトマンズで、この地域で強力な力を持つ役人に助力してもらえるよう政府に頼んでおきました。その人は郡長ですが、どうやら政治的な理由で逮捕されすぐ釈放されたという事で、我々はサマを目前に、郡長が来るのをジリジリと待つ事になりました。そして、遂に郡長が来ました。郡長の勢力たるや大したものです。村民は先を争って村長に挨拶します。頭を撫でてもらうのが何よりも光栄なのだそうです。郡長は細君と二人の子供をつれてきました。今後われわれと行動を供にするのです。
隊長は昨年以来、日本登山隊によせられた援助に対して厚く礼を述べました。郡長は快く引き受けて腹の太いところを見せました。カトマンズで雇った人夫達はここで全部返すことにしました。それは郡長からの申し入れで代わりにここの部落の人たちを雇うことになったからです。新しく雇った人の中にはチベット人の女性もいました。チベットの女姓の中には力の強い人もいて、相撲をとると大の男がころりころりと負けてしまいます。そしていよいよサマへ向かって出発です。
郡長が先頭に立ちました。我々は安心して足取りかるく歌でも歌いたい気分でした。サマに向かうにつれて雪が見え始めました。ここは海抜3500メートル以上です。万事を郡長の手腕に任せほっと一息入れている間にとんでもないことが起こりました。またしてもサマの人たちが行く手を妨害したのです。どうやら事態は前回よりもっと悪くなりました。郡長は権威を傷つけられてひどく怒りました。それがかえって火に油を注ぐ結果になってしまいました。サマの人々は郡長のきつい命令に一旦引き上げましたが、程遠からぬところに足を止めて何か不穏な様子を示しています。
気強い細君の一声で立ちすくんでいた人夫たちはまた行進を開始しました。予定された山登りの基地へ行くにはこのサマの部落を通るしかないのです。郡長と相談の上、サマ部落を強行突破することにしました。ところが、それとわかるとロウで雇った連中は足を止めたまま動かなくなりました。ちょうどそこはロウ部落とサマ部落の境を示すラマ経の塔が立っていました。郡長が叱咤しても無駄でした。ロウの人々は争いを恐れたのか隣村に遠慮したのか、帰してくれと言って聞きません。やむを得ずここで荷物を下ろしテント場を作りました。そして彼らに賃金を払い、帰すことにしました。金をもらった連中はこちらの心配をよそにいそいそと帰っていきました。とにかく荷を運ぶものがなければ万事休すです。
郡長と相談し、ロウやサマに関係ない人を集め荷物を背負ってもらいました。荷物一個に対し特別高い金を払うことで請け負ってもらうことにしました。またシェルパには新しい登山靴、ジェラルミンセイの軽い背負子を配給して荷運びを手伝ってもらいました。一個いくらで請け負わせたのです。多く背負えばそれだけ多く稼げるのです。二個も三個も背負い込む連中もいました。足元も危なく出発していきます。シェルパも重い荷物を背負って出発しました。いつもなら人夫の監督をする隊員もだまっていられません。いよいよサマの入口です。危害を避けるために入口と出口にはかならず塔があります。
「これからサマ」というところで益田隊員は妙なものを発見しました。それは日本の藁人形と同じに見えました。胸元にはグサリと刃がつきさしてありました。サマの人たちは不気味な沈黙で一向を迎えました。沈黙には怒りの憎しみが込められていました。なんだか首筋がゾクゾクするような気持ちになり自然に足が早くなってきます。駆け出したいのをこらえてやっと村の外れまできました。荷が肩に食い込みます。出口には例の塔があり、土団子がありました。なんとも不吉なものです。更に、何千何万ものカラスが登山隊の頭上を覆いました。
不安な一夜を過ごすとラマ経の朝の勤めが、何かの呪いのように聞こえてきます。昨日、このサマの部落を何回も通り抜け、荷物を全部基地に運びきりました。そしてすぐさま基地の設営を始めました。郡長の一行もここにテントを張って頑張っています。テントの設営が終わりかけた頃、いよいよサマの住民代表が基地へ乗り込んできました。隊員たちも気が気ではありませんでした。はるばるここまできて危機一髪の分かれ目なのです。日本は初登頂の誇りを永遠に失ってしまうかもしれないのです。
通訳はネパール政府から発せられた書類をみせたましたが「ここはネパールではない。われわれはチベット人である。ネパール政府の命令を聞く必要はない。」と撥ね付けられました。こうなったら理屈は通用しません。登山隊に向かって「ただちにひきかえせ」と迫ります。「もし言うことを聞かなければ300の村民が襲い掛かる」とまで言いました。前回とまったく同じ窮境にたたされてしまったのです。談判は解決の見込みがつかないまま暗礁に乗り上げてしまいました。目の前が真っ暗になり、長い長い時間が過ぎました。郡長の取り直しで、彼らはふと気を変えたようにその座をはずし、ひそひそと密談を始めました。密談はいつ果てるともなく続けられました。
そしてひとまず基地が出来たので人夫は全部かえすことにしました。サマの強行突破という危険な仕事をさせたので賃金の他に彼らの大好物であるタバコも分けました。チベット人は深い敬意を示す時舌を長く出す風習があります。そうこうしていると談判は急に好転しました。「寺院を修復し死者の供養をするため10,000ルピーを寄付するか、このまま帰るか」と言ってきたのです。日本円でおよそ50万円という吹っかけを、まけるまけないですったもんだの挙句、やっと20万円で決着がつきました。
≪4月1日≫
サマとの談判の翌日、郡長が保証人となって証文をつくり金を渡して事態が解決しました。満足したのか不服なのか彼らは黙々として帰っていきました。そして「マナスルは目の前にある。それに登ることができる。」という思いに真っ直ぐと向かう事ができました。マナスルのいただきから冷たい風が吹いてきました。ネパール、日本、そしてシェルパの旗をあげて門出を祝いました。シェルパは彼らの風習に従いネルという針葉樹の葉を燃やしまたこめをまいて安全を祈りました。
3.5. 幾重にもキャンプを張って 〜第1キャンプ〜
≪4月2日≫
この日から予定の行動にとりかかりました。6トンの装備と食料を第1キャンプへと上げます。登り道は氷河の左岸を登ります。岸壁をジリジリと登るのです。第一次登山隊の時と同様の場所に食堂と炊事場を作りました。今回は薪ストーブを2つ用意し、食堂を中心として登山隊本部テントを合計15張設置し、インドから同行の地質学者のテント、郡長らの3張のテントを合わせて大きなコロニーとなりました。いざ向かうこのマナスルという山の高さは、富士山(3776m)と比べてみると富士山の二倍以上の高さがあります。マナスルの麓にあるこの基地(3850m)でさえ既に富士山より高い場所です。その基地から1500メートル上に第1キャンプ地を設営します。そこまで毎日上り下りして6トンの荷物を運びます。いったん4900メートルまで荷物を上げ、その後に更に上げるという二段階方式の方法をとりました。上がったり下がったりするのは高山病対策として高度になれるためです。この高さになると紫外線が強く、インドのカルカッタより15倍強いのです。荷上げと平行して隊員は各自担当の仕事に取り掛かりました。大塚隊員と加藤隊員は装備の担当です。大塚隊員の指導でシェルパたちは山で使うテントの張り方を練習しました。テントは高さによって色分けがしてあります。徳永ドクターは隊員やシェルパの体調をみます。また、医者という事で現地の人も押しかけてきました。重田隊員は食料の担当です。高所用の食料には最新の注意を払いました。村田隊員は通信の係でガルセン(現地隊員)に無線機の使い方を教えました。松田隊員は槇隊長と隊長を補佐する小原参謀と登山計画の変更を含めを作戦練っています。練りに練った上でこれを隊員に発表しました。ベースキャンプから4900メートルまで全ての荷物を運び終わる頃に5250メートル地点に第1キャンプを設営する計画でした。
3.6. 幾重にもキャンプを張って 〜第2キャンプ〜
そして5600メートル地点を第2キャンプとし、そこを登攀の本拠地とする事にしました。登山の指揮をとる本拠地です。6500メートルの前進基地に約3トンの荷物をあげます。ここから先はザイルでお互いの体を結び氷河に落ちないようにします。安全で登りやすい道を発見すると赤い旗を立てていきます。赤い旗が立つと次から次へと荷物を上げていきます。こうしてキャンプ地を上へ上へと上げていきます。高所により酸素が薄く、息が苦しくてとても長い距離は歩けません。時々休んでは息を整え、少しづつ進んでいきます。第2キャンプの設営は慎重に進められました。荷揚げを2段に分けて同時に進めた為、予定より一週間早く、そして人員も700人で済ませることができました。荷を揚げ終わると必要な人員のみを残して下山させました。食料を確保するためです。
3.7. 幾重にもキャンプを張って 〜第3キャンプ〜
第2キャンプ地を足場として今度は第3キャンプ地の設営に取り掛かります。氷河で起こる雪崩は午後になるあちこちで起こります。第2キャンプから運ぶ荷物は一人あたり20キロです。第3キャンプ地への道を開きに隊員が派遣されます。高所では日陰がなく寒暖の差が激しいので、朝起きると喉がひりひりし食欲はなくなり下痢を起こします。体調が悪くなった隊員を基地に戻します。第1キャンプまで降りると空気がやわらかく感じられます。そしてまた鋭気を養い、第2キャンプまで荷を運びます。第3キャンプ地で松田隊員が急性肺炎になり、一刻も早く下山しなくてはならなくなりました。第2キャンプまで降りた松田隊員は酸素を吸入し回復しました。その後も第3キャンプへの荷揚げを続けます。そして最終登山計画も出来上がりました。
3.8. 幾重にもキャンプを張って 〜第4キャンプ〜
第4キャンプ地の設営に取り掛かります。頂上へ向かう前進基地キャンプです。第4キャンプ地は6550メートル地点です。第4キャンプ地が無事完成しました。天候の良いうちにすぐに荷を運び上げます。テントの中では唯一下界とつながっている無線ラジオが聞けます。日本からの海外放送と、この登山隊のためのインドから流れてくる天気予報が聞こえます。
3.9. 幾重にもキャンプを張って 〜第5キャンプ〜
そしてさらに第4キャンプから第5キャンプ地の設営にとりかかります。ここからは雪と氷の世界です。高度はとうとう7200メートル、この地点に第5キャンプが設営されました。頂上の手前にはフラトーと呼ばれる平らな部分があります。どのルートを通るべきか作戦が練られました。大塚隊員はエプロン型をした地形の場所の偵察にむかいました。初めて酸素吸入器を使いました。傾斜は予想以上に大きく、岩と堅い青氷の塊ばかりの斜面でした。そして遂に7500mのフラトーに到達しました。二人が開拓したこのエプロンルートが安全な登頂路であることが確認されたので、このルートで登頂を目指す事が決まりました。
3.10. 幾重にもキャンプを張って 〜第6キャンプ〜
≪5月8日≫
頂上を目指す最後のキャンプ地へ向かいます。蓮沼ドクターはガルテンと今西隊員に一晩中酸素を吸わせました。先頭に村木隊員と5人のシェルパ、その後にガルテンの今西隊員が続きました。昨日、大塚隊員が見つけた場所に最後のキャンプを張りました。村木隊員と五人のシェルパが第6キャンプを設営しました。7800メートル地点です。頂上まではあと320メートルです。キャンプを張り終え、ガルテンと今西隊員とありったけの酸素を残し、村木隊員と5人のシェルパは酸素なしで第5キャンプまで戻ってきました。夜のフラトーは一人の日本人、一人のネパール人だけとなりました。
3.11. 最終アタック
≪5月9日≫
夜が明け、無風快晴の絶好の好天です。下に登頂の旨を連絡しオートミールを食べ、遂に出発します。朝8時にキャンプ出発、そして12時30分、遂に頂上に立ったのです。頂上でガルテンが写真と映像を撮影しました。そして二人で手を取り合い喜びました。苦闘5年、ついに日本隊が世界に先駆け初登頂しました。1956年5月9日のことです。無事に第5キャンプまでへおりてきた二人に全員が抱きつきました。
≪5月11日≫
そして第2登頂隊として、加藤・茂田両隊員がフラトーに入りました。天候が崩れる寸前に登頂に成功しました。そして無事に下山を果たしました。
≪5月20日≫
基地を引き上げました。来た時には雪がまだまだたくさんありましたが既に雪は解け、緑が生い茂っていました。帰路はマナスルの裏を周り通って帰ってきました。
引用資料 ■映画『マナスルに立つ』(毎日映画社制作) ■社団法人日本山岳会ウェブサイト