シーカ河谷チトレ村のロープライン(軽架線)ステーション:手前から向こう斜面の森まで軽架線がのびている。集落のそばの森ではなく、遠くのゆたかな森を、計画的に利用することで森林を保全することができる。チトレ村では苗畑をつくり植林もおこなっていたが、森林は再生され森林の計画的利用もできるようになったため、プロジェクトは終了し苗畑は廃止された。人物はマガール(族)の少年たち。(2001年2月撮影)
今回のワークショップでは、映画「人類はひとつ -国際協力へのみち-」と「私たちの開発 -ヒマラヤプロジェクトの実践-」(注)をご覧いただきます。この映画は、ヒマラヤ保全協会の前身であるヒマラヤ技術協力会が、ネパール山村において技術協力をはじめた1974~1975年に撮影されたものです。この技術協力は、国際協力のボランティア活動あるいはNGO活動としては世界最初期のものであり、これらの映画は、当時の活動の様子とともに、30年数前のネパール山村の状況を知るうえでも非常に貴重な映像資料となっています。この機会を是非お見逃しなく!
ヒマラヤ保全協会創設者の川喜田二郎は、当初は、ヒマラヤ・マナスル登山隊の一員としてネパール・ヒマラヤに入り、その後、ネパール各地を探検、環境問題の深刻化、環境保全の必要性に直面してヒマラヤ山村において技術協力を開始しました。この登山・探検から技術協力への底流には現場に根ざす思想が首尾一貫として流れ、その実践形態としてアクションリサーチを生みだしました。
(注)企画:日本経済教育センター、制作:日経映画社
【日 時】2011年11月26日(土)14:00-16:00(受付開始:13:30)
【会 場】JICA地球ひろば セミナールーム 401
> 東京メトロ日比谷線・広尾駅・3番出口下車・徒歩1分
【申込み】ご氏名を前日までに e-mail にてご連絡ください。参加無料。
(資料準備の都合上かならずご連絡ください)
【申込先】ヒマラヤ保全協会事務局 e-mail: ihcjpn★ybb.ne.jp(★を@に変えてご送信ください)
【プログラム】
(1)映画上映・第1部「人類はひとつ -国際協力へのみち-」(先発隊がシーカ谷に到着する)
(2)映画上映・第2部「私たちの開発 -ヒマラヤプロジェクトの実践-」
(ロープライン建設工事がはじまる)
(3)現在のシーカ谷 -その後のプロジェクト-
【講 師】田野倉達弘(IHC理事・事務局長)、小山良夫(IHC理事)、 大平篤男(IHC理事)
解 説
- 1953年、川喜田二郎は、ヒマラヤの高峰・マナスル登山隊の一員として、ネパール・ヒマラヤのマナスル~アンナプルナ一帯の現地調査をおこないます。
- その後、次の目標としてヒマラヤのチベット世界を選択し、1958年ドルポへむかいます。そのとき、将来、ヒマラヤで国際技術協力をおこなうことを決意します。読売映画社の映画『秘境ヒマラヤ』(西北ネパール学術探検隊の記録/川喜田二郎隊長)には、1958年の現地調査の様子がみごとに記録されています。
- そして、1963~1964年、第三次東南アジア稲作民族文化調査団(団長:川喜田二郎)を組織し、ネパール西部シーカ河谷に7ヵ月間滞在してフィールドワークをおこない、国際技術協力の事業地はなるべく奥地で、しかし現実的に実施できる場所としてシーカ河谷を選択し、協力活動をおこなうことを村人と約束します。
- その後1970年のプリテストをへて、1974年に、ヒマラヤ技術協力会(ATCHA: The Association for Technical Co-operation to the Himalayan Area)を発足させ、国際技術協力を具体化します。ヒマラヤ技術協力会は、現地住民への愛情と深い現地認識を基盤としますが、その視野はひろくヒマラヤを実践舞台とし、そこからくみあげた教訓・哲学を全世界の僻地農村への協力に役立てることを目指しています。同協力会は、その後ヒマラヤ保全協会(IHC: The Institute for Himalayan Conservation)になり現在にいたっています。
- 歴史的にふりかえってみると、1953年の登山、1958年のフィールドワーク(文化人類学的学術調査)、1974年からの国際技術協力となっており、これらをつらぬく本質はパイオニアワークであり、あらたなフロンティアをたえず切りひらいていく姿勢がここにはあります。
以下に、上記映画の概要を記述します。
映画・第1部「先発隊がシーカ谷に到着する」
映画の第1部では、ヒマラヤ技術協力会が発足したときから、プロジェクトチーム本隊がネパール西部の都市ポカラを出発するまでの様子が撮影されている。
(A)ネパールへ
1974年12月16日、川喜田二郎さんを団長とする、ヒマラヤ技術協力会のプロジェクトチームはネパールへむけて羽田空港を出発する。チームのメンバーはすべてボランティアであり、学生もいれば社会人もいる。また、必要な資材や経費は民間団体からの寄付による。純粋な友情と自発的なボランティア精神こそ技術協力にかかせないというのが川喜田さんの信念である。
バンコクを経由してネパールの首都カトマンズに到着する。ほとんどが山岳地帯であるネパールにあって、ここだけはずばぬけてひらけている。全ネパールの人口密度が1平方kmあたり77人 たらずであるのに対し、カトマンズは938人であり、いちじるしい人口集中がおこっている。ネパールは25年前に王政復古し開国した。ながいあいだ鎖国していたため、中世の古風な町並みが今でものこっている。
その後、カトマンドゥから西へ110kmのところにあるポカラへ移動する。マチャプチャレを中心にしたヒマラヤの峰々が堂々とそびえている。とても風光明媚なところである。
(B)先発隊がポカラを出発
1975年1月2日、吉田・千野両隊員は先発隊としてポカラを出発し、シーカ谷をめざす。あるいて4日間の道のりである。ハゲタカがとんでいる。街道には小さな茶屋があり、ここで食事をしたり、宿泊する。
千野さんは、静岡県富士市にすむ配電工事の技術者である。1年前にネパールを旅行したことがきっかけになり、今度のプロジェクトに自発的に参加をもうしでた。千野さんの技術は、シーカ谷での軽架線工事のためになくてはならないものである。
山道をあるいてのぼっていく。冬季のネパールは晴天がつづく。ロバの隊列もあるいている。
道中最大の難所ゴラパニ峠にさしかかる。雪がいくらかつもっている。峠をこえると、シーカ谷(海抜約2000m)がみえてくる。ここに半年間滞在してプロジェクトをすすめることになる。
(C)先発隊がシーカ谷に到着する
山腹には段々畑がどこまでもつづいており、村人は牛をつかって畑をたがやし、そして種をまいている。人間と牛の労力だけがたよりである。ネパールの山間地にはもちろん電気はきていない。村人は昔ながらの生活をしている。農作業の合間には、裏山へ毎日いき堆肥と家畜のエサとなる草をかりこむ。燃料となる薪の運搬もしなければならない。ここに、日本のミカン畑などでつかっている軽架線を導入したらどんなに役立つだろうか。
また、女性や子供は遠くはなれた小川まで、朝に夕に水くみにいかなければならない。そこで5年前に、東京工業大学山岳部の4人の学生が、塩化ビニールパイプによる水道をシーカ村の小学校のすぐそばに実験的につくってみた。今でも、水道からは水がたえずながれでて、ほとばしる水音がたえない。病人の数も目にみえてへったという。村人は労働から解放されただけでなく、衛生状態もよくなった。
吉田隊員が説明会をひらく。みんなで協力してプロジェクトをすすめることを約束し、ポカラから資材運搬のために、300人にちかい村人が4ヵ村から動員されることになる。軽架線は、5年前の実験の時は装置のレベルが高すぎ、故障したときに現地住民によって修理ができなかった。今回はそれを考慮して、適正な軽架線を設置することにした。静岡で事前の実験もおこなった。
(D)プロジェクトチーム本隊が出発する
さて、ポカラには、インド・カルカッタから資材が到着した。インドからネパールにいれるまで一ヶ月もかかった。村人・食料もあつまった。インドから資材をはこんできた伊藤隊員は陣頭にたっている。60歳をすぎた酒井隊員は会社経営者である。もうひとりの酒井隊員は医者である。小山隊員は東京工業大学の大学院生、小林隊員は東京芸術大学の学生である。ネパール政府の監督官もやってきた。
現地からやってきた村人が参加して、荷物が梱包される。
いよいよ本隊が出発する。村人が川喜田さんのため馬を用意してくれた。隊列が山のなかをすすんでいき、銀色にかがやくながい軽架線がはこばれていく。
川喜田さんは、はじめは学術調査できていたが、何回もきているうちに情がうつって、村人の生活を何とかよくしたいとおもい、10年前に計画がもちあがったという。軽架線と水道の計画案は、何が必要か村人と炉端でかたりあった中からでてきた。川喜田さんが技術協力を村人と約束してから10年、今度はまさしく本番である。
映画・第2部「工事がはじまる」
映画の第2部「私たちの開発 -ヒマラヤプロジェクトの実践-」(注2)では、シーカ谷での軽架線と水道の工事の様子が記録され、同時に川喜田二郎がこれらの技術協力についてコメントをのべている。家屋が現在の4分の1程度しかない30年前のシーカ谷の状況もみられ、非常に貴重な映像となっている。
(注2)映画の中では題名としてつぎが掲載されている。
HILLS HAVE BEEN ALIVENED -DEVELOPMENT THROUGH PARTICPATION-,
NIKKEI FILM PRODACTON CO LTD.
(E)軽架線(ロープライン)を張る
1975年2月3日、プロジェクトチーム本隊はポカラを出発する。軽架線は、1人あたり約30kgを輪にしてたばね、数珠つなぎにして はこんでいく。
あるいて4日、8000mの巨峰アンナプルナの山麓にあるシーカ谷に到着する。村は山の中腹にあり段々畑と放牧地を上下につくっている。かなり遠くの斜面には緑の森がみえるが、集落のまわりには森はのこっていない。
さっそく、軽架線をはる工事をはじめる。村人総出で工事をすすめる。谷をくだり、むかいの斜面に軽架線の端をもっていく。地面をほりおこしてステーションをつくる。何トンという重量がかかるので丈夫なものをつくらなければならない。村人たちは、地元にあるスレート石をつみあげる技術をもっているので、それをそのまま活用する。セメントはつかわない。こうすれば村人が参画できる。傍観者ではなく、自分たちでやったという気持ちになれる。
ステーションが完成し、軽架線をつよくひっぱる。そして無事張りおわる。軽架線のつかい方について村人全員をあつめ隊員が説明する。事故をおこさないために安全教育をする。
1975年4月、真っ赤なシャクナゲの花がさきみだれている。いよいよ軽架線の開通式だ。川喜田さんがテープカット、すぐに、薪が草が、軽架線にぶらさがって谷むこうの斜面から いきおいよくすべりおち、すぐにこちらのステーションにとどく。関係者全員の拍手の音がひびきわたる。
ところで隊員たちは、5件の家をかりて宿舎としている。工事をすすめながらたえずデータをとる。気象観測などもおこなっている。頻繁にあつまってはミーティングをひらき、データや発言はラベルに記入され、「KJ法図解」にまとめられる。つぎにどうそなえるかかんがえ、日程表をつくる。ここでは協力活動と研究とはきりはなされていない。研究にも没頭すると自然に愛情がわいてくる。一方、酒井ドクターは診療所で診察もおこなう。隊員それぞれに持ち味をいかしている。
(F)開発しながら保全する
川喜田さんはかたる。「現地人は生活苦にあえいでいるんです。その原因は人口がはげしくふえたからです。人口がすくなかった昔は、人間と環境とのあいだにつりあいがとれていたんですが、今では完全にくずれてしまいました。今までのやり方でやっていると人間のみならず自然も破壊されてしまいます。ここでみられる地滑りは、自然とのつりあいをうしなった結果です。」
「軽架線を利用して、きめられたエリアで計画的に薪や草をとるようにすれば、たくさんとれる上に森林をあらさなくてすみます。自然は保護されながら生産力もあがり、作物の育成やミルクの増産にもつながります。ここでは開発しながら保全をすることがおこなわれることになります。」
「今回つかった軽架線は軽いうえに、長距離でも張ることができ、ながもちします。これは日本のある会社で新製品として開発されたもので、ヒマラヤの自然にぴたりとあいました。技術協力では、その土地の個性にあう技術を使用し、現地の自然までが、われわれのいとなみに参画しなければなりません。」
パクタル村にいってみると、英国の協力組織の人がきている。彼らは家畜・農業改良をこのあたりでおこなっているという。国境をこえて協力しあうことが人類的な課題になってきた。
(G)水道工事をおこなう
今度は、水道工事に関するミーティングをひらく。吉田隊員が説明し、村人の意見をきく。模造紙に図面をえがいていく。これがいちばんいいというやり方、納得できる道を村人自身が発見したとき、やる気がもえあがる。
つづいて工事予定地の測量がはじまる。水道の位置が確定すると、塩化ビニールパイプ・パイプ・スコップ・ワイヤーなど工事に必要なものを村人がはこんでいく。パイプを谷渡しするためにはワイヤーを利用する。国際技術協力では、最新の技術が案外役にたつ。
水道末端のタンクもつくる。スレートをつみあげセメントでかためる。蛇口もつける。それをひねると水がいきおいよくながれだす。
そして水道の開通式だ。伊藤隊員と村の代表によりテープがきられる。村はちょっとしたお祭りさわぎとなる。
川喜田さんはかたる。「そもそもパイプをつかう計画になったのは、水をながす水路がこのあたりではほれないためです。水路をほると地質の関係ですぐに地滑りがおこってしまいます。」
「水道による波及効果はいろいろありました。あまった水をまわしてナシの果樹園もつくりました。水道は、シーカ村での成功をうけて、つぎにネパール政府がとりあげ、今では、国連のユニセフが大々的にとりあげてとりくんでいます。」
工事が一段落し、川喜田さんが本隊より一足先に帰国することになる。背後には、白銀のダウラギリ山群が天空にそびえている。
生態系の保全をめざして
上記映画を踏まえて、次回(第3回:2012年1月29日(日)14:00-16:00、国立オリンピック記念青少年総合センター)のワークショップでは、ヒマラヤ保全協会のプロジェクトのその後の進展について解説します。
- パイオニアワークとして技術協力を展開する
- 生態系を重視した問題解決型の実践 -フィールドワークとKJ法-
- 事業評価の方法を開発する -衆目評価法-
- 植林により、森林を再生する
- ホースにより、水道を完備する
- 環境保全型の観光開発が必要である -山岳エコロジースクールを開催-
- 情報処理能力の開発が将来の大きな課題になる
- ダウラギリ地域へのあらたな展開 -撤退と開拓-