解 説
ヒマラヤ保全協会は、1995年に、ヒマラヤ保全協会の活動や事業地について知ってもらうために、小冊子『ヒマラヤ保全協会入門』(注)を発行しました。この小冊子は様々なイベントで参加者にくばったり、ヒマラヤ保全協会にあらたに入会した人に配布しました。この小冊子の冒頭に、「ヒマラヤ保全協会の活躍するネパールってどんなところ?」としてネパールの概要が簡潔に記載されています。これは今日でも参考になりますのでここに再録します。
 (注)『ヒマラヤ保全協会の活動』ヒマラヤ保全協会発行、1995年

海抜100メートルから8848メートルまで - 大地を感じよう –

日本から南西に約500キロ、中国とインドにはさまれたネパールは亜熱帯に位置する山岳国です。世界最高のエヴェレスト(8848メートル、ネパール名サガルマータ)をいただくヒマラヤの大山脈から、インドの平原につながる標高せいぜい100メートルの低地までの斜面に位置する面積約14万平方キロ(北海道の約二倍)、人口は2081万人(1993年)の小さな国です。山が多く起伏に富んだ地形のため、気候は地域によって大きく異なりますが、おおむね大陸性の気候で朝夕の気温差が激しく、また6~8月がモンスーン季で雨が多く、10~4月は乾燥しています。首都カトマンドゥは山地低部の盆地にあり、人口は約42万人(1989年)です。(注:2011年現在のカトマンドゥ市の人口は67万人、2007年現在のカトマンドゥ盆地内の人口は176万人です。)

多様で独自な文化の世界 - なりたちを知ろう –

公用語のネパール語を話し、ヒンドゥー教を信じる人々が人口の大半を占め、主に山地低部に暮らしています。また標高800メートル以上の中間山地帯に住むチベット・ビルマ語系の人々も人口の16%を占めており、ヒマラヤ保全協会で支援しているシーカ谷のマガール族もここに含まれます。その他南部タライ地方に住む北インド系住民(25%)や土着民であるタルー(4%)、チベット系住民(1%以下)など様々な民族が共存し、それぞれ独自の文化、生活様式をもっています。またインドから持ち込まれたといわれるカースト制度が存在しますが、インドよりは柔軟で許容度が高いといわれています。

人口の90%が農業に従事 - 人々の暮らしに触れよう –

人口の9割以上が大なり小なり農業に携わっているといわれています。主要産品は米をはじめ小麦、トウモロコシなど。工業はタライ地方で生産が伸びているものの、まだまだ未発達です。一人あたりのGNP(国民総生産)は160ドル(1993、日本は3万ドル以上)、識字率(読み書きのできる人の割合)は約26%、そして平均寿命は53歳。世帯の60%あまりが絶対的貧困ライン以下にあるといわれ、世界の最貧国のひとつです。国の収入のほとんどはカーペット、既製服の輸出と観光によるもので、13億ドルを超える対外債務に加え、国家予算の4割近くを外国援助に頼っている現実があります。山地は、道路網が整備されておらず、物の運搬や移動はもっぱら人間の足に頼るしかありません。

意外に知られていない日本とのかかわり - つながりを考えよう –

日本とネパールとの関係を、援助と観光の側面からみてみましょう。援助についてまず二国間の経済協力(ODA)では、日本は1980年以来ネパールに対する最大の援助供与国で、93年度までに累計1640.73億円もの金額が投入されています。また日本の民間の援助団体(NGO)も100あまり存在するといわれており、様々な地域・分野で活動を展開しています。また毎年2万数千人の観光客が日本からネパールを訪れ、ヒマラヤ山脈のトレッキングを楽しんだり、お釈迦様の生誕地ルンビニーなどゆかりの地を旅しています。ネパールから日本への輸出品は、植物性油脂、衣類、骨董品など小口の産品に限られ、日本からの輸入高の2.5%(1989年)にすぎず、著しく不均衡です。

首都カトマンドゥの由来

伝説によるとカトマンドゥは昔湖だった。仏弟子マンジュシャリ(文殊菩薩)が岩壁を砕いて水を流出させ、湖底が現われた。乾燥した湖底の上に現在のカトマンドゥが築かれたという。

ネパール歴史年表

8世紀 チベットによる支配
11世紀 インドによる支配
1769年 シャハ現王朝が群雄割拠していた多数の土候国を統一
1846年 ラナ将軍家による専制支配はじまる
1951年 インドの調停のもとに王政復古、開国
1959年 第1回総選挙。B.P.コイララ内閣が成立するが、政情不安が続き解散
1972年 第10代ビレンドラ現国王が即位
政党政治を解体、「パンチャヤット民主制度」とよばれる独自の国王親政体制を成立させる
1990年 民主化を求める大衆運動が起こり、政党制復活、立憲君主体制となった。

ヒマラヤ保全協会の特長

■時代の先駆者として
前身であるヒマラヤ技術協力会は、1970年代から画期的なパイオニアワークを展開してきました。1963~64年の文化人類学的調査に基づいて、1970年に設置された簡易水道はヒマラヤで初めてであり、その後ネパール政府とユニセフが広域普及を始めています。そうした適正技術の開発と普及の基礎になったのは、徹底して現地のニーズを把握し住民と共に解決していこうという姿勢でした。自己満足で終わることがないよう、外部者によるプロジェクト評価にも取り組み、1978年にその結果を出版しています。

■ヒマラヤ山村の活性化
山村の自然と暮らしを総合的・構造的に把握し、地域のポテンシャルを活かしながら、鍵となる問題に取り組んできました。1970~80年代には簡易水道(パイプライン)や薪・飼料を運ぶ軽架線(ロープライン)などの適正技術を開発・導入し、村の女性や子供の労働を軽減させ、農業生産の向上や健康改善、森の保全に役だってきました。川の流れる力を使って行ったり来たりできる自然力ボートの開発や、国際協力機構の代替エネルギー・プロジェクトにも取りくみました。最近は土着の知恵と知識を活かした教育、地場産業の育成にも取り組んでいます。

■ネットワークづくり
私達は市民・ボランティアと国、企業が独立しながらも相互に協力すべきだと考えています。NGO相互のつながりを促進するネパールNGOネットワークを支援しています。

■参画型アプローチ「KJ法」を基本に
地球大の問題に市民の一人ひとりの多様な知恵と力を結集して取り組むこと、状況を構造的に把握し、根本問題を見極め、未来のヴィジョンを提案していくこと。こうしたことを具体的に進めていくための思想と方法として、文化人類学者・川喜田二郎が開発した「KJ法」を基本的な方法として使用しています。